16歳の時にウクライナ北東部にある国内第二の都市・ハルキウを訪れたテティアナさんは、その美しい街並みを忘れることはありませんでした。南東部のドネツク国立大学で歴史学を専攻した彼女は、そこで将来の夫となるピョートルさんと出会いました。彼は、テティアナさんと初めて会った一週間後には、自分の唯一無二の存在であると確信したといいます。二人は、テティアナさん故郷であるドネツク州郊外の工業都市・コンスタンチノフカで家庭を築きました。

ダーシャさんとカテリーナさんという二人の子どもは成長し、母が愛するハルキウにある大学に進学し、テティアナさんはとても喜びました。その後、長女は恋人と共に海外に渡り、次女はハルキウに残りました。

「ごくありふれた暮らしに 満足していました
おとぎ話のようにロマンチックでなくとも
私たちは幸せで 夫は完璧な父親でした」

年月が過ぎ、テティアナさんはハルキウに行きたいと考えるようになりましたが、それは娘に会うためだけではありません。街の魅力に惹かれ、戻りたいとずっと願っていたのです。彼女はハルキウの雰囲気と歴史、大通りや公園、川沿いを散歩することが大好きで、57歳の時、ついに夫婦でハルキウに移り、娘や孫たちの近くで暮らすようになりました。

2017年に夫を亡くしてから、テティアナさんは喪失感に苛まれ生きる喜びを感じられなくなりました。呼吸器疾患と配偶者を失ったストレスによる発作が頻繁に起こり、健康状態は悪化。喘息と診断され、投薬と酸素療法が必要となりました。後に体調は安定しましたが、医師が勧める治療が必要な生活は続きました。

エネルギーと気力に満ち溢れた74歳のテティアナさんは、健康を取り戻した今、再び夢を追いたいと考えている Photo:VLADIMIR SKUTA PHOTOGRAPHER

2022年2月24日、ウクライナ全土を揺るがした爆発音や銃声、そしてドローンによる殺戮により一家の穏やかな生活は終わりました。

スロバキア語が堪能な次女のカテリーナさんは、大学を卒業後、ウクライナで薬剤師として働きはじめ、ハーブを使った製剤研究では特許の共同著者にまでなり、2月頭に新しい製薬会社に就職したばかり。描いていた未来が、まるで変わってしまいました。

最初の数週間、侵攻がすぐに終わることを願いながら、一家は友人たちと共に集合住宅の地下室に隠れて過ごしました。しかし、ストレスや不安に加え、寒く湿った地下室の環境により、テティアナさんは呼吸困難になりました。攻撃がハルキウ郊外から市街地に移り、自宅近くのショッピングモールにロケット弾が落ちたのが決定的となり、一同は3月11日にウクライナを離れ避難しました。

テティアナさんは、娘のカテリーナさんと二人の孫と共に、必要なものと貴重品をすべて詰め込んでスロバキアを目指しました。スロバキアは地理的にも文化的にも近く、平和で安全な場所だと人伝に耳にしていました。そして3月半ば、4人はスロバキア南部にある人道支援センターにたどり着きました。

「ロシアの侵攻は
まるで信じられませんでした」

戦争が数日、数週間、あるいは数ヶ月で終結し、すぐに帰国できる希望は次第に消え去り、新しい土地で生活を再建する必要に迫られました。カテリーナさんは人道支援センターに拠点を置くNGOで仕事を見つけ、そこで就学前の子どもたち向けの活動を担当するようになりました。彼女の子どもで、当時16歳のダニエルさんと9歳のマークさんは、現地の小学校と中学校にそれぞれ入学しました。

この人生の試練、とりわけ戦争のストレスはテティアナさんに大きな影響を及ぼしました。安全な場所に着いて、束の間。すぐに喘息やパニック発作に襲われるようになり、とうとう入院しましたが、人道支援センターにある救急車のケアを受け、治療を定期的に受けるうちに状態は安定しました。

IOMなどの支援により、テティアナさんには喘息の病歴に基づいて、自分では到底購入できない酸素濃縮器が贈られた Photo:IOM 2024

テティアナさんは、IOMでカウンセリングや医療施設との連携に関して支援を受けましたが、2024年に入り体調は明らかに悪化。人道支援センターにあった医療サービスが閉鎖し、酸素も不足していたのです。同センターで勤務するIOMの職員、カティアは「彼女の病歴を把握していたので、生命維持のためには定期的な酸素療法が緊急に必要だと理解していました」と説明します。

IOMスロバキア事務所は、現地パートナーの専門家の支援のもと、テティアナさんへ呼吸を補助する酸素濃縮器を寄贈しました。娘のカテリーナさんは、喜びと母への心配の両方の表情を浮かべ「私たちには機器の購入は不可能で、まるで夢のような話でした」と語ります。

現在は呼吸も安定し、発作への懸念が少なくなったテティアナさん Photo:IOM 2024

戦争が起きる前の世界に戻ることは、もうできません。戦争は、日常生活や潜在意識、記憶の中に影を潜め、フラッシュバックし、故郷に残してきた愛する人々との思い出にも付きまとい、常に追いかけてくるニュースの中にも、望むと望まざるとに関わらず存在しています。

テティアナさんは、戦況の激化や避難生活によって人生を見失ってはいけないと感じました。そこで、人道支援センターで出会った心を同じくする仲間と共に、歌とダンスのグループを結成。グループを「ナデージャ(希望)」と名付け、同センターや首都のブラチスラバで十数回のコンサートを行ってきました。今年2月には、IOMも人道支援センターに住む高齢者のために「ダンスの夕べ」を主催し、テティアナさんは新しい仲間と共に充実した時間を過ごし、かつての楽しみを取り戻しました。

「本当に素晴らしい催しで
夫と私がいかにダンスを愛していたか
昔の思い出をよみがえらせてくれました」

娘のカテリーナさんは、人道支援センターでIOMが実施するスロバキア語コースに登録。仕事の都合で、全回に出席することは叶いませんでしたが、IOMの事務所に来る際には、次第に母国語からスロバキア語を使うようになりました。

IOMの支援とカテリーナさん自身の努力の甲斐あり、大学の卒業学位がスロバキア当局によっても認められ、現在はスロバキアで薬剤師として働くための補足試験の準備を進めています。カテリーナさんは、「ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)に就ければ、生活について考えるのも楽になります」と思いを巡らせます。彼女の新しい理想は、住まいがあり、自分の専門分野で働き、子どもたちを学校に通わせるというシンプルなものです。

再び自分の専門分野で仕事を得るため、カテリーナさんはスロバキアで薬剤師として働くための補足試験の準備を進めている Photo:IOM 2024

テティアナさんは74歳ですが、依然としてエネルギーと気力に満ち溢れ、これからさらに健康が回復し、戦争によって奪われた自分の夢を再び追いかけたいと自信を取り戻しつつあります。家族や孫たちとの時間を楽しみ、古い友人や新しい友人と繋がり、自分が楽しんで情熱を持って取り組んでいた活動を再び行うのです。

「より楽に呼吸できる今では、発作の心配もそれほどしなくて済みます」

テティアナさんはそう言って、より活動的に、世界に向けて心を開かなくてはと感じています。新天地スロバキアで、人生に新たな息吹を吹き込むのです。

 

この事業は日本政府や日本の皆さまからの寛大な支援を受けて実施されました。