【I AM A MIGRANT - 各地で貢献する移民の物語 - 】
相川ヌビアさんは、静岡県浜松市で生まれ育った日系ブラジル人の大学院生です。高齢化による労働力不足で、外国人労働者(移住労働者)が年々増加する日本で、二つのアイデンティティを活かし、地域社会に貢献しています。
日本で生まれ育ち、外国人永住者として生きる
「初めてのアルバイトは、私立高校への進学が決まった15歳の時です。学費の足しにと働きはじめたのはホテルの洗い場は、フィリピン、ベトナム、インドネシア、中国と、みんな異なる国籍の同僚ばかり。最初は誰も日本語を上手く話せなくて、簡単な言葉で工夫して意思疎通しながら、些細なことで笑い合って、本当に楽しく働きました。」
ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワイなど、日本を代表するブランドが生産拠点を多く構える、製造業が盛んな静岡県浜松市は、外国人が特に多く暮らす自治体の一つです。リーマンショックに端を発した経済不況や、日本で多く発生する地震などの自然災害、新型コロナウイルス感染症の影響を経てもなお、約3万人の外国人が暮らしています。
バックグラウンドについてよく聞かれますが
質問は大歓迎なので 今ではスラスラ話せますよ
「私は、先祖が日本からブラジルへ移住した日系人で、両親はそれぞれ、ブラジルから『出稼ぎ』に来て浜松で出会い、結婚しました。私は日本で生まれ育って、見た目も日本人っぽいけれど、生活様式はブラジル風。家庭ではポルトガル語と日本語が飛び交い、学校では日本語、アルバイトでは英語も使います。」
そう屈託なく話す、相川ヌビアさんは、「移民第二世代」の若者です。バブル景気の頃に来日した両親は、当初数年で帰国する予定でしたが、一家は景気や家族の状況に合わせて帰国するかどうかの決断を続け、結果的に25年近く浜松で暮らしています。
日本とブラジルをつなぐ 人生の二度の転機
彼女にとって、人生の最初の転機は、中学3年生の時。日本での生活が長期化するに伴い、それまで通っていたブラジル人学校から、将来を見据えて日本の中学校へ転入を決意します。
「幼い頃から日本のアニメや音楽が好きで、日本の学校でもやっていけると思っていました。ところが、漢字は全然読めないし、概念的な説明にも難しくてついていけませんでした。」
当初、なかなか成績は振るいませんでしたが、「日本とブラジルのことをもっと学んで多文化共生に貢献したい」という目標を見つけてからは、大学進学のために一念発起。猛勉強の末、地元でも有数の大学である静岡文化芸術大学に一発合格し、この春からは修士課程に進学しました。
先生や友だちが温かく迎え入れてくれて
励まし合って受験勉強を乗り越えました
次の転機は、両親の故郷であるブラジルへの留学です。ずっと海外留学に憧れていた彼女の下に舞い込んだのは、在籍する大学とサンパウロ大学との連携が再開するという運命的な報せでした。学内選考を突破した彼女は、2歳の時に両親と一時帰国をして以来、初めて2022年に南米の地を踏みました。学業や課外活動に加え、地球の裏側で暮らす親戚との時間も充実したものでした。
曾祖母の遺品の中から 母が日本に移住したばかりの頃
故郷に宛てた手紙をもらいました
若くして異国に渡った母の 決意にあふれた文面に
私も力をもらいました
大好きな浜松 その未来のために
日本語とポルトガル語に加え、英語も堪能で、現在は学業の傍ら、通訳や語学講師としてのアルバイトにと大忙しのヌビアさん。浜松国際交流協会や地元のNPOとも連携し、国際的なバックグラウンドを持つ子どもの学習支援にも携わっています。
もっと勉強して この街を さらによくしていきたいです
何事も『外国人だから』というだけで諦めてはいけません
日本で身に付けた勤勉さや気遣いと、ブラジルで学んだという率直さや前向きさをハイブリッドに兼ね備えたヌビアさんは、地域社会を明るくする原動力です。
このインタビュー記事は、多様性と包摂を推進するためのIOMのキャンペーン「 I AM A MIGRANT」 の一環です。
I AM A MIGRANTは移民が自らの物語や移動の過程を語って、ステレオタイプを打ち破り、移住に関するナラティブを作り上げていくための空間です。
下記ページでは、ヌビアさんをはじめとするさまざまな移民の物語を読むことができます。