2023年7月 タイ・バンコク
アーマッド(仮名)は、インドネシアで比較的ゆとりのある暮らしをしていました。大学を卒業し、英語も堪能な彼は、IT分野で十分な待遇の仕事に就いていました。
しかし、アーマッドは、海外でより良い未来を実現するという希望を捨てることができませんでした。
「タイにいる友人を通じて、オンラインマーケティングの仕事を紹介されました。給料も高かったので、その仕事を受けることにしました」。
インドネシアからまずマレーシアに渡り、陸路でタイ国境を越えると、アーマッドはバンコクにいました。タイのことはよく知らず、どの都市で働くことになるのか、と思っていました。
タイ北部まで車で連れて行かれ、さらに1時間ほど行ったころで、アーマッドは川辺で武装した男たちに囲まれ、悪い事態になりそうだと思いました。
「とても怖くて混乱しました。川を渡ると、明らかにタイのものではない国旗が見えました。そこで、ミャンマーに連れて来られたと気付いたのです。」
アーマッドは、東南アジア全域で増加傾向にある、オンラインで人々をだます詐欺行為の強制労働をさせて利益を得る、何千人もの人身取引被害者の一人です。
タイは歴史的に、この地域における人身取引の目的地であり、被害者の出身国であり、経由国でもありますが、タイを経由して近隣諸国に向けて取引され、このような詐欺行為に従事させられる人々が増加しています。
人身取引に関わっている組織は、COVID-19による経済への影響を悪用し、オンライン上で有利な仕事を紹介して人々を欺いています。加えて、2021年2月の政変後のミャンマー情勢により、犯罪組織はタイとミャンマーの国境沿いなど、法執行機関の権限が限定的にしか及ばない地域で活動を拡大してきたのです。
アーマッドのように、被害者は比較的高学歴で、バイリンガルやマルチリンガル、そして技術にも精通している傾向にあります。
2022年から2023年6月までの間に限っても、19カ国の国籍の230人以上が、犯罪行為を強要されたとして国際移住機関(IOM)タイ事務所に照会され、そのうち86%が人身取引被害者として認定されています。この種の詐欺拠点へのアクセスや包括的な情報が不足していることを考慮すると、実際の被害者数はもっと多いと思われます。
それから半年間、アーマッドは「魅力的な若い女性」を装い、ソーシャルメディアを通じて人々を騙すための詐欺行為に従事することを余儀なくされました。
「私がしたことは、人々のWhatsAppアプリのID番号を集め、それを別のチームが詐欺を続けるために渡すことでした。」
そこでの状況は過酷なものでした。
「1日19時間も働くこともありました。ノルマを達成しないと罰せられ、感電させられたり、暑い中で立たされたり、腕立て伏せをさせられたり、走らされたりしました。」
当初約束された月給は850米ドルでしたが、アーマッドが受け取っていたのは毎月50米ドル程度でした。
別のインドネシア人のシンタ(仮名)は、友人からいい仕事を紹介すると約束され、同じような窮地に陥りました。しかし、英語が話せない彼女がノルマを達成するのは至難の業でした。
「ノルマを達成しないと、給料を天引きされ続けました。どうすれば家に帰れるのか聞いたら、2億ルピア(約13,400米ドル)も返せと言われました。臓器売買でもうけている別の組織に売るとまで脅されました。」
この状況に耐えられなくなったインドネシア人のグループは、ストライキを決行し、結果として、2週間も部屋に監禁されることになりました。
形勢逆転の糸口となったのは、2台目のスマートフォンを隠し持っていたグループの一員が、自分たちの状況を録画して、インターネット上に公開したことです。動画はインドネシア中で拡散され、ついに政府関係者の目に留まりました。あまりの反響の大きさに、人身取引の加害者はこのインドネシア人グループを留まらせるのはリスクが大きすぎると判断し、ついに彼らをタイに帰したのです。
このグループが国境沿いで地元の団体から最初の支援を受けた後、IOMは在タイインドネシア大使館に彼らについて知らせました。同大使館の要請を受けて、IOMは、彼らが帰国する前にバンコクに数週間滞在するための食事や宿泊場所、法律相談、通訳サポートをこの26人へ提供しました。
「昨今起こっている人身取引の傾向は非常に複雑なため、効果的な被害者保護には強力な連携が必要です。IOMは必要な場合には、中央政府機関や地方政府、市民社会、そして大使館とも緊密に連携を取って、支援を行っています。」とジェラルディン・アンサールIOMタイ事務所代表は説明します。
「さらに、私たちの優先事項の一つは、人身取引のケースを正確に特定する能力を強化することです。」と同代表は続けます。
「IOMは昨年、タイ政府による、人身取引被害者の保護と支援に関する全国規模の照会メカニズム(NRM)の設立を支援しました。これは、被害者のスクリーニングや特定、支援、他機関への照会における役割と責任を定めた、国としての新しい政策の枠組であり、その内容について、第一線で働く2,300人以上の関係政府職員に対する啓発も行いました。」
厳密に被害者をスクリーニングする方法がなければ、彼らは隙間から漏れる恐れがあり、状況をよりよく理解して、さらなる人身取引被害を防ぐ機会を逃してしまいます。
無事にインドネシアに帰国したアーマッドとシンタは、将来について前向きです。
シンタは笑顔で話します。
「子どもたちは5歳と2歳です。仕事は夫に任せられるので、今は子どもと一緒に過ごしたいです。今回のことで、簡単に人を信じてはいけないと学びました。」
アーマッドは「ビジネスを始めて、人生をやり直したいんです。」と言います。
あの状況から脱出できたのは幸運だったと振り返りながら、二人は、未だに囚われの身で脱出できない人たちのことを思います。
「今私にできるのは、自分の体験を共有することだけです。私が話すことで、私のようにこの悪夢に悩まされる人がいなくなることを願っています。」とアーマッドは言います。
IOMタイ事務所によるこの人身取引被害者グループへの支援は、日本政府の資金を活用して行われました。