スーダンでのフィールド経験: ダルフールにおける人道支援と平和構築、民間企業から国際機関へ 2016年12月
元IOMスーダン事務所 相良祥之
灼熱の日差し、気温40度を超える酷暑、そして砂嵐。広大な砂漠に囲まれたスーダンの首都ハルツームで、私は2013年にIOMスーダン事務所に選挙支援担当官として着任し、その後、事務所長室にうつり事業開発担当官として2015年まで勤務しました。それまで民間企業と独立行政法人国際協力機構(JICA)で合計8年間ほど社会人経験を積んでいた私が、はじめて国際機関で働くことになったのがIOMスーダンでした。きっかけとなったのは外務省の旧・平和構築人材育成事業(現在は平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業に改称)。国連ボランティア(UNV)として1年、コンサルタントとしてもう1年、合計で2年間IOMスーダンに勤務しました。本稿では私が主に担当していたダルフールにおける人道支援と平和構築、さらに、民間企業出身の私がどのようにしてスーダンで働くようになったのかについてご紹介させていただきます。
- 1.ダルフールでの人道支援
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南ダルフールのIDPキャンプで炎天下のなか飲み水を配る(2014年 南ダルフール)
(筆者提供)南ダルフールのIDPキャンプで炎天下のなか飲み水を配る(2014年 南ダルフール) (筆者提供)スーダン西部に位置するダルフールは砂漠や乾燥地が全域に広がり、フランス一国ほどの面積を有する広大な地域です。ここでは水に恵まれた場所に定住して農業に従事する農耕民と、水や牧草地を追い求めて家畜とともに移動しながら暮らす牧畜民(遊牧民)という二つのタイプの人々が昔から暮らしています。長い歴史のなかでさまざまな部族が共存しながら暮らしてきたのですが、同時に、水や牧草をめぐって部族間の抗争も続いてきました。こうした自然資源をめぐる対立に、政治的な利害対立が組み合わされ、2003年に大規模な内戦が勃発、それ以来10年以上、内戦が続いています。またダルフールはリビア、チャド、中央アフリカ共和国、南スーダンという、それぞれに内戦や貧困を抱える国々と国境を接しています。
ダルフールでは200万人以上の国内避難民(IDP)が故郷を追われ、厳しい生活を余儀なくされています。私が働いていた2013年、2014年はちょうど戦闘が激化した時期に重なり、年間で40万人以上ものIDPが発生し、ダルフール紛争が「世界最大の人道危機」と呼ばれた2004年以来の事態となりました。40万人といえば横須賀市の人口ぐらいの規模です。IDPが寄り合って暮らしているエリアはIDPキャンプと呼ばれます。ほとんどのIDPキャンプは極度に乾燥した砂漠地域にあり、炎天下のなか日陰すらほとんどありません。蛇口をひねって水が出るような水道や十分な食料もなく、健康の不安を抱え、いつ起こるともわからない戦闘を心配しながら暮らすという状況が、毎日、続きます。
IOMは300人以上の現地スタッフとともに、ダルフール全域で活動しうる稀有な国際機関の一つとして活動しています。紛争が発生した際にどれだけの人々が、どこに逃げてきたかという避難状況のトラッキングや、指紋認証システムを活用したIDPの登録などを実施していました。性別で分けるとダルフールではIDPのおよそ6割以上を女性が占め、その中には母親と子どもだけ逃れてきた家族も多く含まれます。男性は土地や家畜を守るために家に残るケースが見られ、一部は兵士となっているケースもあるでしょう。他にも高齢者や子どもだけで逃げてきたケース、障害者の家族を抱えているケースもあります。IDP登録時には簡易な健康状況のチェックをおこない、栄養失調とみられる子どもはUNICEFなど他の国連機関やNGOにサポートしてもらうといった現地での連携も行っていました。水を提供するために井戸を掘削したり、最低限の健康確保のために手洗いを推奨するなど水・衛生分野(WASH; Water, Sanitation and Hygiene)の活動、診療所の運営、一時的な仮住まい(シェルター)、水汲み用のポリタンクや石鹸など生活必需品(Non-food items)を提供したりしていました。また、多少治安が落ち着いた地域ではIDPキャンプから故郷に戻りたいという帰還民も多く、こうした人々への支援もIOMが担当する重要な仕事の一つでした。
- 2.平和構築と「人間の安全保障」
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紛争が長く続いてきたダルフールで膨大な人道支援のニーズがあるのは間違いありません。他方で、10年以上と長期化する避難生活を経て、援助に依存せざるを得ない人々が多数いるのも事実です。これはある意味、仕方が無いところもあります。家を焼かれ、畑も失ってしまった農耕民の人たちが、ただでさえ貧困が広がるダルフールにおいて援助以外の生活手段を自分で見つけるのは、とても難しいことです。日本のように皆が銀行口座を持っているわけではありません。家畜と家が全財産という人々が、そのほぼ全てを失って、あるいは紛争において奪われてしまったら、どうすればいいのでしょうか。
IOMはダルフールにおいて水や保健といった基礎的サービスの提供に加えて、職業訓練を実施することにより、IDPや帰還民ひとりひとりの「人間の安全保障」を推進するためのプロジェクトを開始しました。その背景には紛争下で貧困状態にあるIDPや帰還民の生活と生存を確保するだけでなく、手に職をつけることにより、人としての尊厳を取り戻して欲しいという強い思いがありました。私の具体的な仕事は事務所のトップである事務所長の下で、新しいプロジェクトを立ち上げる事業開発でした。首都ハルツームに駐在しながら、各分野のプロジェクトマネージャーやダルフール・オフィスのスタッフと一緒にプロジェクトの提案書を作成し、ドナー国政府から資金拠出をいただけるよう協議を重ねます。私はこの「人間の安全保障」プロジェクトの立ち上げから資金調達まで一貫して担当するとともに、職業訓練の活動についてはプロジェクトマネジメントも担当していました。ダルフールに出張して州政府高官や部族長などと協議し、IDPキャンプの訪問によってニーズを把握するとともに、他国連機関やNGOとの調整によって効果的・効率的なプロジェクト実施ができるようにすることも大事な仕事でした。
このプロジェクトは日本政府から資金拠出をいただいたことに加え、JICAとの連携も実現できました。職業訓練の支援が得意な国はドイツ、韓国などいくつかありますが、とりわけJICAの技術協力の質の高さには以前から注目していました。単に学校を建てたり機材を提供するだけでなく、学校が継続的なトレーニングを提供できるような運営体制やカリキュラムの改善、州政府長官や校長を日本に招聘した能力強化にまでJICAは踏み込んでいました。ダルフール地域の三州(北・南・西ダルフール州)の州都にある職業訓練学校において、こうした質の高い支援で既に実績を上げていました。さらに政府との関係性が難しいスーダンにおいて、JICAと日本政府は省庁からの信頼も得ていました。他方、IOMはダルフールのIDPキャンプやローカルコミュニティにアクセスすることができます。IDPの若者を州都までバスで毎日連れてきて、JICAが支援していた職業訓練学校で学んでもらうことにしました。学校はイスラム教らしく男性と女性で校舎がわかれており、男性には建築や溶接、女性にはミシン縫いや手工芸などのコースを実施しました。若者の失業は、紛争の根本原因でもあります。職業訓練は当然、その後の就職や収入向上に繋がることが期待されます。しかし、手に職をつけて働くことで人としての尊厳を得ることは、それだけに留まりません。若者が銃を持って戦闘に参加するのではなく、自分の人生にもっと違った可能性を見出すことができるようになるのです。彼らがブロックを積み重ねて家や建物が建っていくことが、ダルフールの開発にもつながります。
「持続的な平和(Sustaining Peace)」を達成するためには、こうした職業訓練、水や保健などの支援に加え、コミュニティセンターや交番といった基礎的な社会インフラを整備することも必要不可欠です。欧州連合(EU)はこのアイデアに強く賛同してくれました。農耕民と牧畜民が水や牧草など自然資源をめぐって対立を続けているエリアでは、井戸一本で緊張が緩和することもあるのです。IOMがスーダン南部の南コルドファン州や青ナイル州で国連開発計画(UNDP)とともに実施していたプロジェクトでは、農耕地のそばに延々と石を並べ、家畜が入ってこないようにマーキングして通り道を明確にすることに加え、家畜の通り道がまたいでしまう農地は少し動かしてもらうといった取り組みを実施しました。その結果、年間で400から500件ほど報告されていた農耕民と牧畜民との間のいざこざが30件にまで減少したコミュニティもありました。9割減という劇的な効果があったのです。こうした活動をダルフール南部、南スーダンとの国境地域に拡大するという2年間にわたる大きなプロジェクトに、IOMはEUからの資金拠出を得ることができました。
ところで紛争地の現場では、スタッフの安全確保がまず第一に重要です。そのため現地に展開する国連平和維持活動(PKO)である「ダルフール国連・AU合同ミッション(UNAMID)」の部隊に護衛してもらいながら移動することになります。治安が良くない地域ではUNAMIDの宿舎内で寝泊まりすることも一般的です。こうした宿舎では娯楽も限られていますので、夕方にはさまざまな組織・国籍の人々とサッカーをしたり、みんなで料理を作って談笑するといったこともあります。遊牧によって育てられたダルフールの牛肉はたいへん美味しく、イタリア人の同僚と現地で作ったボロネーゼの味が格別であったことは今でも鮮明に思い出されます。 - 3.民間企業から国際機関へ
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国際機関の採用においては、フィールド経験、特にスーダンのような紛争影響地域での勤務経験が重視されています。私がスーダンで働いて感じたことが3つほどあります。第一に、過去の実務経験で培ってきたスキルが、グローバルな課題にどう具体的に貢献できるか明確になったということです。私は民間企業で新規事業開発やプロジェクトマネージャーとしてそれなりの実績を出していましたが、それだけで国際機関の就職にはつながりません。国際機関の採用においては、そのポストにできるだけ近い環境、すなわち開発や人道支援であれば途上国、もしくは本部であればニューヨークやジュネーブの国際機関内部で働いていた実績が求められます。その第一歩がとても難しいのです。幸いにも平和構築人材育成事業というパラシュートでスーダンに降り立った私がIOMで担当したのは、まさに民間時代に培ったスキルがそのまま活きる新規プロジェクト立ち上げやドナーリレーションでした。対外折衝、予算や人員計画、プロポーザルの作成、リスク管理、そして上司から本部までの決裁を取るための内部調整。こうしたスキルは民間時代から5年以上コツコツと日々 積み重ねてきたものです。もちろん交渉相手は民間時代に担当していたサムスンのようなグローバル企業から、スーダン政府やドナー政府へと変わります。それでも、交渉はお互いWin-winになるように進める、厳しい交渉になっても嘘や駆け引きは持ち出さず「素」の自分をさらけ出して誠実に話し合うといったスキルやノウハウは、ほぼそのままスーダンでも通用しました。これが自分にとっても自信となり、上司や同僚にも認められるようになると、CVにも書ける実績になります。UNVの1年目に実績を出せたことで事務所長に仕事ぶりを評価され、2年目のコンサルタント契約につながりました。
第二に、そもそもフィールドに向いているかテストできたことです。国際機関の現場は、基本的に途上国すなわちフィールドです。ポストの大多数も本部ではなくフィールドです。国際機関で長く働こうとすれば、実務的にもキャリア構築のためにもフィールド生活は避けられません。しかし、フィールドは生活が厳しいのも確かです。私が生活していたハルツームは幸い治安はとても良く、不満といえばイスラム圏なので酒が飲めない、豚肉が食べられない、経済制裁されていて娯楽が無いといった程度でした。インターネットもつながります。SkypeもLINEも使えます。私は学生時代からインドやチベットなどでバックパッカーをしていたこともあり、ハルツーム生活もそれほど苦しかった記憶はありません。しかし、この生活を30代、40代になって初めてするとなるとどうでしょうか。気力、体力がある若いうちにフィールドに行っておかないと、なかなか行きにくくなります。家族がいれば尚更かもしれません。
第三に、自分のミッションが明確になったことです。国連採用のコンピテンシーのうちcore valueとして挙げられているのはIntegrity, Professionalism, Respect for Diversityであり、その中でもintegrity(高潔さ)というのは、フィールドで受益者と実際に接することで確固たるものになるのではないかと思います。私の場合、ダルフールの職業訓練の閉校式における、晴れやかな生徒たちの顔を忘れることは無いでしょう。私はいまニューヨークの国連事務局で仕事していますが、本部でも、原点はフィールドという人は少なくありません。
スーダンと聞くと、なんだか危ない国という印象を持つ方は多いかもしれません。しかし実際には、広大な国土を縦断する大河ナイルの流れのように、スーダンの人々はみな穏やかで優しい人ばかりです。断食の時期になればスーダン人の同僚が、俺の息子はまだ断食ができないんだ、つまみ食いしてしまう、情けない、とグチをこぼすこともある。夕涼みに街角で飲むミルクたっぷりのコーヒーも最高です。これら全部、スーダンで生活しなければ気付くことはなかったでしょう。キャリア云々というだけでなく、ひとりの人間として多くを学ぶことができた二年間だったと思います。