ネパール地震後の緊急支援 2015年5月

2015年5月13日
国際移住機関(IOM)ジュネーヴ本部
大野 拓也

1) 緊急派遣

震災発生当日(2015年4月25日)夕方(ジュネーヴ時間)に会議を行い、翌日の便で現在の勤務地スイス・ジュネーヴからネパールへ発つ事になる。今回は、シェルターのほかにキャンプ調整・運営(CCCM)、保健衛生、ロジスティックの担当者が本部や地域事務所からネパールに送られた。

26日にカトマンズ運行が開始されたかどうかわからないまま、まずはアブダビに飛び、そこからカトマンズ便に搭乗する。機内は2割ほどしか席が埋まっておらず、搭乗していたのはレスキュー隊や人道支援関係者、もしくは被災した家族が心配な海外で働いているネパール人のどちらかだった。

飛行場の駐機場に空きがないため、着陸態勢に入る前の旋回を何度も繰り返して、予定より4時間遅れて27日に首都カトマンズに着いた。空港で辛抱強く待っていてくれたネパール事務所のスタッフを見かけるとほっとする。到着後数日は、ネパール事務所で実施されている難民の第三国再定住事業で使われる宿泊施設に仮住まいをした。

2) 現地での役割 カトマンズにて

今回の派遣の主な目的は被害の状況把握、そして緊急支援活動資金確保のための事業計画書の作成、現場事務所の立ち上げ、現地スタッフの採用などである。事業計画書作成のためには、現場のデータが欠かせない。さらに被災者に何が必要か、そして支援国政府は何を希望しているか、それらをまとめて草案にしたものをIOM本部もしくは調整事務所が修正し、支援国政府担当者と話を詰めていく。

ネパール地震後の各国政府や支援団体の対応は非常に迅速で、地震後1週間後にはいくらの金額の支援もしくは救援物資提供を行うと表明した政府があった。日本政府の対応も早くそれが今回の早期支援につながった。

現地では、被害状況を把握するのと平行に支援団体間の会合、活動分野毎に分かれたクラスターでの会合、支援国政府を代表する大使館への挨拶、そして事務所内での会議など、日中の時間は瞬く間に過ぎていく。 会議の合間に手が空くと、ロジスティック担当者を手伝いに空港横の倉庫場所へ行くこともあった。空港の規模が小さいため旅客機だけでなく、貨物機の枠も混んでいて、今日着くか明日着くか、それも定かではない。ようやく着いた救援物資を税関を通過させて、配布先に運ぶ前の一時待機場所で、搬送用のトラックを待って、荷揚げをしてと、そうこうしているうちに夜10時を回る。そこから事務所に戻って、簡単な報告書や事業提案書原案の作成をして、一日を終える。最初の1週間はその繰り返しだった。

3) 現地での役割 チョタラにて

2週目はシンドゥパルチョック郡という今回の地震で被害が大きかったところに赴き、事務所を立ち上げるのに参加した。チョタラという町ではほとんどの建物が倒壊もしくは半壊していたため、テント生活による対応となった。昼間は汗ばむほどの中砂埃まみれになるが、夜から明け方にかけて急に冷え込み、ジャンパーを着て寝袋に入っても寒い日が数日あった。水回りの工事が遅れ、6日間シャワーを浴びれなかったのが予想していたとはいえ辛かった。

被害状況を知るために、時間を見つけては調査班と車で走った。5、6キロごとに通過する集落は、ことごとく建物が壊れていて、この先彼らはどうするのだろうかと、ため息が出る。いくつかの村で計10家族にインタビューをしたが、「先のことはまだ考えられない」という反応が大半であった。共通していたのは唯一の生活の糧である農地を離れることは(家族が海外やカトマンズに出稼ぎに出ているケースを除く)選択肢には全くなく、この地でどのように生活を続けていくかが彼らの差し迫った課題であり、我々援助関係者がどのように支援していけるかが鍵となることを彼らと話していて学んだ。

被害が大きかった理由は、石やレンガを積んで間を粘土で埋めただけの構造だったことが一番の理由だろう。さらに谷底から吹き上げる風に屋根があおられないようにスレート(岩盤を薄く切ったもの)が屋根材として使われていて、それらが家を押し潰してしまった。支援の方向性としては、現在ブルーシートを提供しているが、数ヵ月後にはトタン板、竹もしくは木材、簡単な工具に推移して、同時に地元の技術者が助言できるようなシステムを作る計画でいる。

4) クラスター支援

緊急支援では、多くの支援機関が参加するので、医療、食料、シェルターといった分野ごとに分かれたクラスターで、支援の内容や地域を調整して決めていく。ネパール地震後のキャンプ調整・運営(CCCM)クラスターはIOMが取りまとめ役をしており、避難所数や現状を把握し、今後の避難所のあり方や避難所を解消するための解決策を務めている。

私が関わっているシェルター・クラスターは国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)によってリードされているが、シンドゥパルチョック郡ではIOMがリードとなって、地方政府や活動団体との調整役を行っている。具体的には、どの団体が(Who)どの地区で(Where)何を(What)いつ(When)誰に対して(Whom)支援をするかというこの援助業界でいうところの5Wを取りまとめ、支援の重複を避け、支援の行き届いていないところに振り分けるのが仕事である。今回は後任者が来るまでの繋ぎとして私がコーディネーターを務めた。

 

5) 現地職員の存在

こうした支援活動の要となるのが現地職員の働きで、地理・文化・行政を知りつくす彼らの尽力なくしては事業の成功はありえない。しかしながら彼らも被災者であり、だからこそ自国のために尽くしたいという熱意がある一方で、震災のショックをぬぐえない者もいる。そんな彼らには仕事を強制せず、少し休養を取るように薦める。

たわいのない話をすることでストレスを軽減することにもなるので、移動中の車内や昼食時は彼らの話を聞くようにする。地震の起こった25日は土曜日で学校や仕事もなく、ほとんどの家族が一緒に過ごしていたので、離れ離れにならずに済んだこと。ネパールでは早めの昼食(遅めの朝食)を午前10時から11時にかけて済ますので、地震発生時の11時56分に調理をしている家はほとんどなく大規模な火災が発生しなかったことなどを教えてもらう。きついながらも自国の復興支援に携われる充足感を得ているように感じた。

6) 今後の展開

首都カトマンズ近郊よりもシンドゥパルチョックやゴルカといった被害の大きかった地域への物資の供給、特に道路が整備されていない地域への調達が課題である。ヘリコプターの利用を続けると必要経費がかさむので、候補として上がっているのはシェルパの利用である。

半壊した建物の構造診断結果によっては、行く場所はないが家を出なければいけない世帯が増えているであろう。そうした被災世帯への対応、避難所の確保などが課題となるであろう。

書き終えたところで、再び地震が起こった。カトマンズでは、数秒の突き上げるような揺れの後、地面に立っているのにまるで湖畔のボートの上に立っているような感覚が5分ほど続いた。やっと前向きに考えれるようになった被災者の多くが前回の地震を思い出し、心身のコントロールがうまくできないスタッフも数人いた。こうした状況や被害の拡大により、これまで練り上げてきた計画も変更せざるを得ず、振り出しに戻ったような疲労感が続いた。(続く)

ネパールからのレポート続編はこちら