アメリカで暮らす日本出身のナターシャさん

世界各地の移民のストーリーをウェブサイトやソーシャルメディアなどで紹介して、人の移動や移民のポジティブな側面を伝える、IOMの‪#iamamigrant‬ キャンペーン(http://iamamigrant.org/)(敬称略)

日本でもアウトサイダーなのだと気付いた時は、胸が張り裂ける思いでした。

©IOM 2016

 

私のストーリーは、1966年、祖父母がコロンビアからシカゴへ旅をしたところから始まります。私の祖父はコロンビアで収入のよい仕事をしていましたが、自分の子供たちにより多くの機会を与えるために、コロンビアでの不自由のない生活を捨てる決意をし、アメリカへ移りました。家族で10年ほどアメリカに滞在したのち、比較的気候が穏やかで、親戚や友人も多いコロンビアへ戻りました。
 
しかしながら、私の父とおじは、出生地主義のアメリカで米国籍を得ていました。それによって父の人生は全く違うものになったのでしょう。父は19歳のときにアメリカに戻り、英語の能力検査にぎりぎりで合格して米国海軍に入りました。のちに日本の横須賀基地に駐留することになり、そこで後に私の母となる日本人女性と出会いました。
 
私は横須賀で生まれ、6歳まで日本に住みました。父が海軍での任期を終えたとき、任期中に得た学位を生かしたキャリアを始めるため、家族3人でフロリダ州セント・ピーターズバーグに移りました。
 
日本人家族のいない、コロンビアの親戚がわずかにいるだけのアメリカで、私たちはぽつんとしていました。
 
アメリカでの生活を始めた当初、社会になじまなければというプレッシャーが強くありました。自分のアイデンティティの核だと思っていた文化から引き離されてから、私の日本人の部分はくじかれ、子ども時代から、育つことはありませんでした。
 
アメリカ人になるということ、初めて足を踏み入れた時に自分を拒否した文化の一部になるということを考えると、大きな不安に苦しめられました。アメリカでのアウトサイダーという立場は受け入れていました。ですが日本でもアウトサイダーなのだと気付いた時は耐えられない気持ちでした。ほかに良い表現が見つかりませんが、胸が張り裂ける思いでした。
 
私は若い頃、忘れたくなくて、何とか日本語に親しみ続けていました。それで前回の日本への旅行のあと、大学で日本語の上級クラスを取って、アメリカ人になるという運命に抗う最後のひと押しをしようと決めました。ですがここで、代わりに、もうひとつのジレンマが生まれました。というのは、父の家族の言葉であるスペイン語を学び続けるかどうかということです。ある言語を学ぶことで、もうひとつの言語を頭から追い出してしまうというリスクが怖いのです。ふたつの家族のどちらか一方を取るように迫られているかのように感じました。
 
言葉というのは、その言葉を話す人自身の世界になり、文化やアイデンティティにつながる架け橋になります。ですから、私のアイデンティティって、言葉との関係で捉えると、流動的なものだと気付いたのです。

こちらの動画では、ナターシャさんが3カ国語で自身のストーリーを紹介します。